失われた30年

失われた30年

=経済成長後に必ずやってくる停滞期間

=次の飛躍のための準備期間

 

で、うまく行けばもうすぐ日本は復活するかな、という話です。

 

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バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで印象的なシーンの一つは、1955年のドクが「壊れるはずだよ日本製だ」って言ったのに対して1985年のマーティが「何言ってるの?良いものは何でも日本製なんだよ」って返すとこね。

 

1955年頃のメイド・イン・ジャパンは「粗悪品」の代名詞だったけど、1985年には「高品質・高性能」を意味した、と。

 

そういえば1985年のマーティが欲しがっているクルマはトヨタ・ハイラックスだった。「あれこそクールだ。最高だ」って。その頃、私はまだ子供だったのでメイド・イン・ジャパンが世界中からクールだと思われているなんてほとんど意識してなかったけど。

 

その後、バブルとその崩壊があって1990年あたりから日本はずーっと経済が不調で「失われた○○年」が10年から20年になり30年になってもまだまだ回復の兆しも見えない。

 

一体、何がどうなっているのか色々な人がそれぞれの切り口で説明してるけど実はさっぱり分からない。

 

「失われた○○年」の途中から社会に出て藻掻きつづける世代の一人として、ここで一旦整理しておかないと気分的に収まりが付かないのでちょっと考察。

 

■まずは

「失われた30年」の前に

 

・1955〜1985の「飛躍の30年」

 

があるわけです。で、

 

・1986〜1990の「バブル」

 

があり、

 

・1991〜現在が「失われた30年」

 

と。

 

「失われた30年」を検証する前に、まずは「その前はどんなだったのか?」を見てみる必要があるんじゃないかな。

 

■飛躍前夜:1945〜1955年

「米国は、第二次世界大戦が終わった段階で人口は世界の6%にすぎなかったが、総生産では約半分を占めるほどの超経済大国になっていた」猪木武徳「戦後世界経済史」)

 

伊勢丹裏の焼野原を、アメリカ兵が大きな車両機械で整地していた。ブルドーザーというものだそうだ。巨大な機械が二台、それに一人ずつ乗って、チューインガムをかみかみ、または煙草を横ぐわえして、ハンドルを握っている。車の通ったあとは黒土が平坦にならされてゆく。チンチクリンの日本人たちが雲集して、口をあけて見物していた」山田風太郎「戦中派不戦日記」1945年10月28日)

 

復興のためには製造業の品質向上・生産性向上だ、とうこいうことで、日本科学技術連盟という組織が米国の統計学者ウイリアムエドワード・デミングさんを招待して1950年6〜8月に「統計的プロセス制御と品質の概念」を講義してもらいます。聴講者は技術者、経営者、学者などなど数百人。これをきっかけに品質管理をベースとしたコスト削減と生産性向上の概念が日本人に浸透します。

 

デミングさんの教え

詳しくは「デミング 14のポイント 7つの死活問題」か何かで検索すれば色々出てくるけど、簡単にまとめると以下。

 

1.アメリカ型大量生産方式の「設計→製造→販売」という一方向のフローに「市場調査」を加え、その結果をフィードバックして循環的なサイクルにすることでユーザの要求を商品に反映し続ける。

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2.統計的な品質管理。製品一つ一つを綿密に検査するのではなく「ロット」などまとまりで管理し「抜き取り検査法」などでロット内の品質のばらつきを許容範囲内におさめる統計的手法の導入。

 

3.品質向上・効率化は、(小手先の技術改良などではなく)組織全体に根付く仕組みとして造り込むことで実現する。「リーダーは製品やサービスの向上を常に心がける環境を作る」「マネジメントは全体を継続的に向上させる」「職場のリーダーは単に数値ではなく品質で評価せよ。それによって自動的に生産性も向上する」「問題を見逃さない」「社員全員が会社のために効率的に作業できるよう不安を取り除く」「部門間の障壁を取り除く」「強健な教育プログラムを実施する」などなどの施策により組織の上から下まで全員参加で効率化・品質向上に努める。

 

付加情報・時代背景など

  • そもそもデミングさんの教えは、米国では主流でもなんでもなかったんだそうだ。その頃、米国は「資本力をベースにした力任せの大量生産」で成功していたわけで、デミングさん的な手法は馴染まなかったんだろね。
  • 逆に言うと、組織の上から下まで一人ひとりが当事者意識をもって全員参加で細かい改善を積み上げていくようなやり方が日本人に馴染んだんだと思う。
  • それと、敗戦から這い上がるしかなかった日本ではデミングさん的な手法を軍隊式規律で浸透させることで、より早く機能させることが出来た、というのもあったでしょう。
  • さらに、1950年に始まった「朝鮮戦争」による特需で日本全体に経済的な余裕もできはじめて設備投資などが可能になったという好条件も重なったんでしょね。

 

■飛躍の30年:1955〜1985年

「1964年頃、アメリカは日本製のトランジスタラジオで溢れてたんだ。もちろん俺も持ってたよ。学校に隠し持って行ったら女性の数学教師に見つかってね。その先生 ”それ日本製ね” って言うなり俺からそのラジオを取り上げて床に叩きつけて壊したよ」(米国の司会者 Jay Leno の回想)



デミングさんの教えの効果もあって製造業に品質管理の意識が浸透し、高品質・高性能な工業製品を安価に製造できるようになった日本企業は積極的に海外進出します。

 

ソニー

トランジスタ開発の成功に始まるソニーの躍進はこの時代の日本企業を象徴しています。

  • 1953年、ウエスタン・エレクトリック(WE)社とトランジスタのライセンス契約を締結。通産省は「トランジスタの開発は無理」と外貨の割当を拒否(WE社はソニーの技術力を信頼して支払い猶予期間を設けてくれた)。WE社からは「ラジオは止めておけ」と勧告を受けたがラジオ用トランジスタの開発を開始。
  • 1955年、日本初のトランジスタ携帯ラジオを発売(TR-55)。当初、トラジスタは個体ごとに特性・品質のばらつきが大きく量産は不可能でほぼ手作り状態だったが、江崎玲於奈など優秀な研究者の試行錯誤で改良が進み、歩留まり90%を達成して量産化が可能に。
  • 1957年、トランジスタラジオ「TR-63」をポータブルより小さいポケッタブルラジオとして米国で販売開始。輸出が間に合わない程の人気に。
  • 1960年、ソニーアメリカ設立。
  • 1962年、ニューヨーク五番街ショールーム開設。5インチ型マイクロテレビ「TV5-303」が大ヒット。
  • 1970年、NY証券取引所に上場。
  • 1979年、携帯型カセットテーププレイヤー「ウォークマン」発売。
  • 1982年、フィリップス社と共同でCDを開発。

 

鉄鋼

それとこの時代の日米経済競争で何があったのか、分かりやすい例が鉄鋼業界。

  • 鉄鋼業界では1950年代に「酸素上吹転炉法」「連続鋳造法」の開発という技術革新があった。
  • が、米国の製鉄会社は旧来方法にこだわり続け、1960年代までこれらの新技術を導入しなかった。というのも、すでに平炉に高額な設備投資をしていたために躊躇したのと、資金調達がうまくいかなかったため。
  • 日本は1956年頃から平炉を廃棄し連続処理が可能な転炉の建設を始めた。これにより日本は低価格で良質な鉄鋼の輸出が可能になった。
  • 一方、米国の製鉄会社は、自分たちが技術的劣位にあることに気づかず、日本の粗鋼が低賃金労働、ダンピング、不公正貿易慣行で市場を脅かしていると主張。政府に保護政策を求め、そのロビー活動に執心して経営がおろそかに。
  • 結局、米国では多くの製鉄工場が閉鎖されることに(1980年代に60万人ほどいた鉄鋼関係労働者は1990年代には28万人、2010年代には14万人以下まで減少:いわゆる「ラストベルト:赤錆地帯」)。

 

ホンダ(二輪車

1959年にアメリカ・ホンダ・モーターをロサンゼルスに設立。大型バイクが好まれる米国では苦戦したものの、意外にもそこそこ売れたのがラインナップの中で一番小さいスーパーカブ。キャンプなどの際にピックアップトラックに積んで目的地で足代わりに使ったり、学生が大学キャンパス内の移動に使ったりと「ホビー」や「短距離移動」で使われていることがわかり、販路をスポーツショップや釣具店にまで拡げて大成功。それまで米国には無かった「ホビー用・短距離移動用小型バイクの市場開拓」というブルーオーシャン戦略の成功事例としてビジネススクールで取り上げられるほどに。<YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA>のコピーが有名。なにしろあのビーチボーイズのブライアン・ウイルソンが「Little Honda」って曲まで書いたくらいですからね。

 

クルマ

自動車関係だと、この期間に日本で以下の技術開発や製造工程の改善などが行われています。

  • プレス工程の自動化
  • 材料の在庫管理方法の改善と生産ラインの組み換え
  • 排ガス規制・騒音問題への対応
  • NC工作機械、自動検査機の導入
  • 溶接、鋳造、鍛造、塗装工程のロボット化

これらにより、故障が少なく燃費が良くて、環境基準を満たしたクルマを安価に製造することが可能になりました。

 

ちなみに米国における自動車の輸出・輸入の金額変化は以下です。

 

・1960年代:輸出が12億ドル。輸入が 6億ドル

・1970年代:輸出が36億ドル。輸入が60億ドル(多くは日本車)

 

米国では、インフレの進行(1965年〜1982年)、マスキー法の制定(1970年)、オイルショック(1973年、1979年)などの影響で安価で小型で燃費の良いクルマが好まれ始めた、といった追い風もあったようです。

 

まとめ・付加情報・時代背景など

  • 日本企業は、統計的品質管理手法や新技術の導入で高性能、高品質、安価な製品が製造可能になり積極的に海外に進出。
  • 米国は1965年あたりからインフレで苦しみだし(ジョンソン大統領のヘッドスタート計画とベトナム戦争が直接の原因らしいですが)実質賃金の減少で「安い輸入品」が好まれはじめたという幸運もあった。
  • ニクソンショック、ドルの変動相場制移行、プラザ合意による円高や、オイルショックなどの苦境も国が一丸となって耐え、被害最小限で乗り切ることができた(いわゆる「日本株式会社」とか「持ち合い」とか「系列」とか)。
  • なにより、敗戦から這い上がるしかないので、経営者が積極的にリスクを取った。
  • さらに、この期間の日本はいわゆる人口ボーナス期なので内需も旺盛で「作れば売れる」状態だった。

 

■バブル:1986〜1990年

「DEAL IS EXPECTED FOR SONY TO BUY COLUMBIA PICTURESソニー、コロンビア・ピクチャーズを買収」(1989年9月26日 ニューヨーク・タイムズ

 

「Japanese Buy New York Cachet With Deal for Rockefeller Center:日本人 ニューヨークの象徴 ロックフェラーセンターを買収」(1989年10月31日 ニューヨーク・タイムズ

 

普通に理性のある日本人ならバブル時代のことは思い出したくもないもんですが、以下、簡単に。

 

  • 日米間の貿易摩擦が問題になり、1985年のプラザ合意円高に誘導(1年で1ドル240円→150円。輸出に頼る中小製造業者に倒産が相次ぐ)。
  • 中曽根内閣が貿易摩擦解消のため国内需要の拡大を国際公約公定歩合の引き下げその他の金融緩和を実施したことで土地や株式への投機が発生。国際公約なので簡単に取り下げられないはずとの思惑もあって株価や不動産価格が急騰。
  • 1990年1月、株価の下落がはじまる。
  • 1990年3月、大蔵省が不動産への投機熱を下げるために「不動産融資総量規制」(「不動産向け融資の伸び率」を「総貸出の伸び率」以下に抑えること)を全国の金融機関に通達。
  • その他、公定歩合の引き上げ、地価税の導入、固定資産税の課税強化などの急激な金融引き締め策によりバブル崩壊



バブルの最大の教訓は

  • 日本人も持ちなれない大金を持つとロクなことに使わない

ということでしょう。世界中に恥をさらしていいクスリになったんじゃないでしょうか。

 

■失われた30年:1991〜

「私は勧めないな。だってこんなクルマじゃパーティーに行けないだろ、恥ずかしくて」(Jeremy Clarkson「トップ・ギア」にて日本のある高級スポーツカーについて)

 

液晶のシャープ

シャープの液晶テレビでの失敗が色々なことを象徴していると思うんです。

  • 2000年代に亀山工場を建設。「亀山ブランド」の液晶テレビが国内で人気に。
  • 2008年頃からリーマンショックの影響もあり需要が減少
  • 2009年、大阪府堺市に大型液晶パネル用の工場が完成。が、同工場で製造する60インチの液晶テレビは売れず財務状況が悪化。
  • 2012年、台湾の鴻海精密工業と資本業務提携。
  • その後、同社の液晶事業はスマートフォンタブレット向けにシフトするが先行他社に比べ技術的劣位にある上に財務状況の悪化もあり十分な設備投資もできず。
  • 2016年、シャープは鴻海の子会社へ。

 

まったくマーケットが読めてないので、いままでの成功体験に縋るしかなく「高性能・高品質な製品は売れてほしい」という希望的観測だけで進めてしまった、ということでしょうかね、冷たい言い方になるけど。

 

2000年代後半に東南アジアのある国で、家電量販店の液晶テレビ売り場を覗いたことがありますが、日本製だけが際立って画質が良かったけど価格も飛び抜けて高かった。で、店員に聞いてみたら売れるのは「画質はそこそこ・価格もそこそこの韓国製中型サイズ」ってことでしたよ。日本人にとってテレビはリビングの主役だから高画質が好まれるけど(にしても当時60インチがバンバン売れるとは思えなかった)、海外では画質なんてそこそこで良かったんですよ。

 

というように、なにかにつけて「品質が良いのは分かるけど/機能が多いのは分かるけど、これじゃないんだよね」ってものが多かったように思う、あの頃の日本製品は。

 

ソニー

いつの間にか「ゲーム」「金融」「エンタメ」「エレクトロニクス」などの複合企業になっていました。

 

鉄鋼

好調だった日本の製鉄業も「中国の粗鋼増産による価格低下」「鉄鉱石、石炭価格の高騰」「電炉(原料=スクラップ鉄)の比率が他国に比べて低い30%以下」ということで競争力が低下。業界再編が進んでいるとのこと。

 

クルマ

自動車の製造過程で排出するカーボンに課税されることになると、日本の自動車メーカーは厳しい状況になるようですね。というのも、原発再稼働が難しい日本では電気自動車用のバッテリー製造に使用する電力を化石燃料由来のものに頼らざるを得ず、電気自動車を安価に製造するのは難しくなるので。ちなみにVWグループはバッテリーを電力の非化石化率が高いスウェーデンで製造するらしいし、ロビー活動(内燃機関の廃止とEV化推進)も活発に行っているようです。

 

IT関係

AppleiPhoneは禅の思想を取り入れたデザインだそうですが、日本では2000年代までケータイ電話のデザインなどの主導権を通信事業者が握っていたのもあって、ああいったデザインは逆立ちしても出て来ませんでした。

また、SNSクラウドに関しても日本から世界的なサービスがほとんど出てこないのはご存知の通り。「出来は中途半端でも良いからとにかく早くリリースして、できるだけ多くのユーザをできるだけ早く獲得し、走りながら機能追加・修正をしていく」なんてやり方は日本の大企業にできるわけがない。

 

日本はすっかり取り残されてしまいました。

 

■考察

景気は拡大期と後退期を繰り返す循環的なもので、細かく見ると神武景気(’54〜’57)、なべ底不況(’57〜’58)、岩戸景気(’58〜’61)などなど短い周期で好・不況を繰り返しているようですが、基本的に日本は1945年〜1955年までは不景気(実際は「朝鮮特需」で50年代前半にはかなり景気がよくなっていたらしいですが)、1955年〜1985年は好景気、バブルを挟んで、1990年〜現在までが不景気、と考えて良いのではないかな。

 

それと、米国と日本の関係を見ると「米国が好景気なら日本は不景気、日本が好景気なら米国は不景気」に見える。今後はここに中国なども加わるのでもっと複雑なことになりそうですが。

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で、「失われた30年」も基本は循環的なものでしょう。

 

  • 1955〜1990:日本企業は経営者が積極的にリスクを取り新製品の開発に注力した。製造業では新技術の導入、品質管理の徹底、工程の効率化・自動化・ロボットの導入などで高品質・高性能かつ安価な製品を次々に生み出し、米国から製造業の主権を奪い取った
  • 1990〜:日本企業は円高や人件費高騰のため工場を東南アジア、東アジア、東欧など人件費の安い国に移した(製造工程の規格化、自動化、ロボット化により可能になった)。さらに、それら新興国の企業が独自に製造業に参入してきた。米国は70年代80年代に起業した若い企業(MicrosoftAppleなど)が新たな市場を開拓。90年代00年代には特にIT関係で起業が相次ぎ世界的な大企業に成長するケースが続出。一方で日本からはIT関係で世界的な製品・サービスがなかなか出てこない。

 

ただ、

 

  • 日本はいわゆる「人口ボーナス期」が終わり、人口そのものも減少しはじめ、内需が縮小し続けている
  • なので製造業以外であってもマーケットを海外に拡げずに国内だけで商売をしている企業は、小さくなっていくパイの奪い合いで疲弊。

 

といった特殊事情があるのは確かだけども、それなら積極的に海外に進出すれば良いだけです。

 

ではこの「失われた○○年」はいつまで続くのか。以下は産業の主役の変遷図。

 

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  • 一つの産業が衰退しはじめてから完全に終わるまでは大体30年程度かかるとすると(世代交代が終了するまで大体30年)、日本でも、「特に高い知識やスキルが求められない製造業」はそろそろ終了し、代わりに何か別の領域(おそらく知識集約型産業)で新たなイノベーションが起こって日本経済は見事に復活する、というのが最も楽観的な考え方。

 

  • 一方で、日本では(70年代に米国でMicrosoftAppleが、90年代にAmazonSalesforceが出てきたような)イノベーションの芽が育っているようには見えないし、育つような環境すら無さそうだし、さらに人口減少で内需も減ってるし、移民を受け入れることもなさそうなので、「売れない→投資できない→イノベーション起こらない」という負のスパイラルに入ってこのまま復活することなく国全体が衰退していく、というのが最も悲観的な見通し。

 

以上、整理すると

 

  • 1955年〜1985年の飛躍の30年は日本にとって、先進国になるための「キャッチアップの時代」だった。
  • 「キャッチアップの時代」は国民が一丸になりやすいし人件費も通貨も安いので、(ある程度、個人の自由度を制限して)軍隊式規律で鍛えて海外に進出すれば上手くいく。
  • ところが、一旦、キャッチアップを成し遂げてみるとこれまでの成功体験がことごとく機能しなくなり失敗事例が多発する。
  • こうなる前に、これまでとは異なる領域から新たな企業が続々と出てくれば良いけど、硬直化した日本社会ではなかなかそうはならない。
  • しばらく停滞している間に世代交代が進み「過去の成功体験が忘れられない世代」や「その後に発生した数々の失敗の責任を取りたくない世代」がいなくなって、ようやく新たな挑戦が可能になり、上手く行ったら、また飛躍の時代がやってくる。

 

ということで、

 

失われた30年

=キャッチアップ後の停滞期間

=次の飛躍の準備期間

 

と考えれば良いんじゃないでしょうか。

 

で、「失われた○○年」は、ボーッとしてると「過去の成功体験が忘れられない世代」と「その後に発生した数々の失敗の責任を取りたくない世代」が引退するまで続く、ということでしょう。このままだと、おそらく今の40代が役職定年になるまで、つまり、あと10年ちょっとは続くでしょうね。

 

「失われた○○年」の間に社会に出た我々は、ネガティブな表現だと「敗戦処理世代」、ポジティブにとらえても「次の飛躍のための地ならし世代」ということでしょう。

 

ただ、日本がこのままさらに10年以上沈みつづけたら、飛躍も浮上も不可能な取り返しのつかない状態になっているかもしれませんが。

 

■ではどうすれば良いの

さっきの「産業の主役の変遷図」の文言を修正。 

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衣食住が満たされ社会も安定している先進国では教育水準も向上し、産業構造の主体が肉体労働や単純労働から知識労働へと移行していきます。個人個人の考え方も多様化するため軍隊式規律でまとめることも困難になります。

 

また、先進国は社会保証制度やインフラの維持などにお金がかかる状態になってしまっているため立ち止まることも後戻りも許されず、常にイノベーションを起こして「稼げる企業」が次々に生まれる仕組みを整備しなければいけません。

 

ということで、日本が次に飛躍を目指すべき領域は「知識集約型産業」。

 

具体的には何なのか、ITなのか宇宙開発なのか、医療なのか金融なのか、それとも他の何かなのか、とにかく日本人の強みや特性に馴染みやすく、これからの時代を先取りした領域を選ぶべきですが、それが何なのか?はっきりしないし何の兆しも見えないのが閉塞感の原因かな。

 

何をするにしても基本は「製品・サービスのアイディアを考えるのが日本人(知識労働)・製造や開発は人件費の安い海外(単純労働)」としたほうがよい。どうしても国内で製造業をやりたいなら、マーケット分析をしっかり行った上で、日本でしか製造できない付加価値の高いもの(高度な知識やスキルやセンスが求められるもの。ターゲットは富裕層とか)に絞るべき。

 

間違っても「単純労働をベースとした製造業の国内回帰」といった後戻りはしちゃいけない。結局、新興国との安売り競争になって賃金は新興国並みに下げるしか無くなるから。いや、賃金も社会保証制度もインフラも、なにもかも60年代の水準に戻して三丁目の夕日を楽しみたいなら別ですけど。

 

やるべきことは割とはっきりしている

「社会全体の新陳代謝のスピードを上げる」こと「若者の自由な発想を邪魔しない」こと。たとえば以下。

  • 企業はもっとリスクを取る。
  • 企業は積極的に海外に進出する。
  • 企業は組織の原則(命令一元化、権限責任の一致、統制範囲、専門性)を守り、しくじった人には速やかに退場してもらい、若者にチャンスを提供する。
  • 若者はパワハラなど理不尽なことがあったらさっさと転職する。パワハラしないといけないような会社はもう終わってるんです。
  • 若者は「あ、これ敗戦処理の仕事だな」と気付いたらさっさと転職する。
  • 若者は「この仕事から学ぶことは何もないな」と気付いたらさっさと転職する。
  • 若者は「自分の能力に見合った報酬じゃないな」と気付いたらさっさと転職する。
  • 若者は「社内政治に巻き込まれかけてるな」と気付いたらさっさと転職する。
  • 若者が起業しやすい環境を作る。
  • 若者ももっと海外に目を向ける。

若者には「知識労働」に専念してもらって、おじさん連中は敗戦処理や事務仕事をやれば良いんです。たまたま停滞期に社会に出てしまったのは残念だけど、これも運命と思って次の世代が働きやすい環境を整備することに専念して、これまでの社会経験で得た知識・スキルは全て若者たちのために使えば良い。

 

「では、どういった領域に日本復活のチャンスがあるのか?」についてはまた別の機会にでも考察してみたいと思います。

 

自分たちが気付いていないだけで「クールだ。最高だ」ってものが既にあるんですよおそらく。

 

おわり。